朝の音

朝。

まだもう少し眠っていたいときに台所から聞こえてくる音。

まな板と包丁が触れる音。シンクに水が流れる音。トーストが焼けた音。朝早く起きて家族のために家事をしてくれている人の独り言。

 

自分がそこに存在することを許してくれる、木漏れ日のような、懐かしくて温かい音。

 

こどもが生まれて、台所に立って家事をしながら、ふと思い出した愛しい音。

 

たぶんこうやってまわりのおとなが日常を形成していくことで、いつの日かこどもも同じように思う日がくるんだろう。

 

実家がなくなり(なくなったようなもん)、おじいちゃんおばあちゃんも老いて、自分にとってのあの頃の日常はなくなってしまったけど、大切な思い出がふと蘇り、目が緩んだ。一方で、この思い出を、感情を、こどもに意識させることなくつないでいかなければならないとも思った。

 

 

 

PS:健康診断、要精密検査になったけど、再検査の結果脂肪肝でした。。まだ人生は長い、ようやく1/3くらい。生活習慣改善頑張ります。

悩みは常につきまとう

 

新築で買った家が傾いてる、家族が増える、専門学校、部署異動(多分)

 

自分は、結構悩んでしまうタイプなので、ほんとに直面する直前までできるだけ考えないようにする傾向がある(ADHD?)

なのでタスク着手もギリギリになる(ただ大体何とか間に合ってる)

 

ただ、頭の中に巣食っているので、漠然としたモヤモヤは残り続ける

 

あとは結構他責志向、自分が100%確実に意思決定したものでない場合、結構うだうだ考えてしまう

 

できるだけ自分ごとにするように意識はしてるのだが

資格試験

1年4か月ぶりの更新。

 

とある資格に合格したので、更新してみる。

合格したとある資格とは、某巨大ECサイト企業が運営する共有コンピュータサーバーに関するもの。

 

自分が働く会社はIT企業といえど、古い体質の会社だとばかり思っていたが、5年前からするとかなり変革が進んでいる、と改めて感じた。

PCはデスクトップPC、会議は紙ベース、打合せにはとりあえず関係者全員招集、テレワークなんてもってのほか、みたいなものだったが、今や全部裏返しだ。

 

システムだけはいまだに自前の超巨大サーバーの上に知る人ぞ知る化石言語COBOLが乗っかている。(扱っている業務上仕方がないこともある)

ただ気づいたらAPIだとかクラウドとか、ポータルサイトのニュース記事でちらっと目にした程度のトレンド技術の導入も進んでいる。

 

冒頭の資格もこの流れによるものだ。社内研修で受講したら思いのほか、面白かったので、どうせならと資格勉強を始めた。資格勉強とはいえ家事の合間に動画をひたすら見、たまに参考書を開いて1か月だが、意外と受かってしまった。

試験のレベルが低いのか、はたまた私の頭がよかったりしたのか、おそらく前者であろうが、テストの合格は承認欲求が満たされるもので、気持ちがよい。

 

でも新しいことやトレンドに触れるのは、脳が活性化される感じがする。

枯れたルーティンは心地よいけど、停滞は後退だ。

 

 

文章書いてると頭が痛くなってくるのでこの辺で。

ブログはルーティンじゃないのにな、おかしいな。

 

次はいつ更新になるのでしょうか。

徒然なるままにも教養が要る

何かを文字を起こすにも、インプットしたことをアウトプットするにも、誰かに自分の気持ちを伝えるためにも、教養がいる。

ここで言う教養とは、雑学だとか知識だとか語彙だとか、すべてあまねく含むものだ。

書きたいことでも、アウトプットでも、自分の気持ちでも、言語化できていないと、だれにも伝わらない。

そして、言語化するには、教養が要る。比喩、具体例、表現など、伝えたいことをより適切に伝えるためにも。

 

わが敬愛なる小山田壮平のライブDVDが我が家に届いたので、安いウイスキーを片手に鑑賞していると段々とエモい感情が湧いてきて、自分も何かをアウトプットしたい、気持ちを伝えたいという欲求が降ってくる。

 

というわけで、今もDVDをリピートしたまま、徒然なるままに何かを書こうと思ったのだが、筆を進めるのにひどく時間がかかる。頭の中に靄がかかってロックされている気分で、非常に不快だ。

何かを書きたいのに、書けない。ちょっとしんどい。なんだろうこの引っ張り出せない感じ。大喜利アプリで上手い回答が思いつかない感じ、芸能人が俳句を作って格付けされるテレビ番組を見て自分でも作ろうとしたけど上手く作れない感じ、好きなアーティストの曲の詩がなかなか思い出せない感じ、弓道の射法訓がどうしても暗唱できない感じ。(最後の2つは少し違う気もするけど..)

 

そういうお題に対して、すぐに回答が思いつく人って、どうやって思いついているんだろうか。

 

自分の仮説では、そういう人って普段から心の声を駄々洩れにしているのかなとは思う。

自分に正直に、すべての事象・事柄に自分の考えをもつこと。「すごい」「おいしい」「かわいい」「きれい」「いやだ」別に、具体的な表現ではなくてよい、素直に感じたことを素直に出す。別に口に出さなくてもいいけど、心で感じること。

やっぱり今って、スマホがあるから、隙あればインプットできてしまう。でもそれって心に自分の感情に蓋をしてしまってるのかなとは思う。思考停止でインプットだけを繰り返す。AIかよって。

スマホばかりに触れずに、自分の感性を出せる機会を、時間を作るのって大事だよねって最近思う。

インプットは決して悪いことではなく、アウトプットしないのがダメなのであり、そういう意味では独り言でもいいから、インプットしたそばからアウトプットするのって大事なんじゃないか、独り言ってすごく大事なんじゃないかって思う。

 

あとは最近、よく聞く言葉だけどHSP(Highly Sensitive Person)の人にもヒントがあるのかなと。

その字のとおり、感受性がとても豊かな人。ゆえにメンタル系の病気になりやすい一方、著名なアーティストたちがこの特性を持っていたりするらしい。

そういう人たちって、一つの物事から得る情報量が、一般(あえて一般といいます)の人と比べてすごく多いのだと思う。それゆえ、些細なことにも気を巡らせることができる。

例えば、あなたは「雨」という一つの単語からどれだけ思いを巡らせることができるだろうか。じゃあ「雨」と「空」を組み合わせたら?

 

あとは、抽象と具体の往来回数がすごく多いのだろうと思う。往来回数を増やすには、それこそ教養が必要だと思う。知らなければ行き来できない。思いつきやしない、頭によぎりもしない。

 

 

こういう技術論?ちっくな話がしたかったんじゃないんだけどな。

やっぱり文章を書きなれてないとこうなっちゃうのかな。

 

妻が見ているドラマが終わって、テレビが空いたので、ゲームします。独り言多めで。

 

 

精進精進。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大切な死と裏切りと何か その1

 

最近の大きな出来事として、僕の大切な友人の死があった。

突然の死だった。

訃報の10日前に彼の家で飲み会をしたばかりだった。

 

夜もまだ浅い時間に、2年くらい会っていなかった同級生からLINEで連絡を受け、しばらく呆然としていた。

会社での残業中、ものすごい顔をしていたに違いない。

正直まったく意味がわからなかったし、脳がLINEの文面の理解を拒否していた。

 

 

 

彼は、とてもまっすぐな奴だった。

決めたことは曲げないし、普通の人だったら躊躇しそうなところにも迷わず飛び込んでいく。おれから見たらそんな奴だった。

 

古い記憶で一番印象に残っているのは、中学校一年生時の夏休みの課題の職場訪問だ。

その時出された課題としては確か、身近な大人の職場に訪問して、仕事内容を聞いてきてくるというものだった。

そのときのおれは、母親のパート先のサンドイッチ屋にでも訪問しようかと考えていた。

そんなときに彼が誘ってきた。工場に行こうと。

当時僕らが住んでいた場所の近くには、日本人ならだれでも知っているであろう超大企業の事業所があった。

工場があったのは知っていたが、訪問するなんてそもそも思いもつかなかった。工場と職場訪問が結びつきもしなかった。

 

 

二つ返事で、行くと返答するとそこから彼の行動は早かった。

事業所に電話をかけ、クラスの担任に紹介状を一筆入れてもらい、あっという間に訪問の予約を取り付けた。

事業所の方からしてみたら、よくある会社訪問だろうが、ぼくらからしてみたら、彼のとった行動はすごい。そういえば電話をかけるときに、彼の家に集合したっけ。ドキドキしながら彼の電話を見ていたのを覚えている。

 

電話が終わった後は、三ツ矢サイダーで乾杯したあと、太鼓の達人をやったな。

7月末の暑い昼下がりだった。

 

 

 

 

こんな感じで、彼への弔いとして、エピソードをつづっていけたらと思っています。

 

では。

 

 

 

 

 

燦燦とした明け方の光の方へ

祝ブログデビュー。

 

ブログをはじめようと思って何年が経ったのか。

現在、社会人4年目。大学2年生の時には漠然と考えていたはずだから、

ざっくり6年。

6年越しのブログデビューです。

小学校入学から小学校卒業までの思い出に匹敵するほどのネタを開放する時が来た。

 

ここ最近、まあまあ、いろいろありましたからね。(現在進行形だけど、、)

やっぱいろいろあって、自分の中の感情というか思いというか気持ちが、閾値を超えたんだろうか。

大学時代にTwitterでつぶやいてたときも、ストレスに比例してつぶやき増えてたしな。

でも、ブログがTwitterと違っていいことは、140字以内に無理して収めなくていいところかな。

 

あと一貫して長文をだらだらかけるところ。

Twitterってなんか、この事象に対して140字でバンッと述べなさい!みたいなところがあるからさ。

 

あとは、なんだろうな。

やっぱ文字数気にしなくていいから独り言みたいな感じで思考の垂れ流しができるのはいいなって、まさに今思った。

 

社会人一年目の時に、彼女と勢いで買った3年日記は半年も続かなかったから、ブログこそは頑張って長く続けていきたいなと思う。

ただ頑張って続けようとしていること自体がそもそもダメな気がするけどね。

 

いいなあブログ。そんなこんなでもう500字ですよ。

小学校のときの作文なんて1時間かけて400字の作文用紙埋まらなかったからね。

これが15年の歳月がもたらした、成長なのか。違うと思うけどね。

 

 

 

まあまあまあ、ぼちぼち、徒然なるままに書き綴っていきたいと思います。

最初はこんなところで。