徒然なるままにも教養が要る

何かを文字を起こすにも、インプットしたことをアウトプットするにも、誰かに自分の気持ちを伝えるためにも、教養がいる。

ここで言う教養とは、雑学だとか知識だとか語彙だとか、すべてあまねく含むものだ。

書きたいことでも、アウトプットでも、自分の気持ちでも、言語化できていないと、だれにも伝わらない。

そして、言語化するには、教養が要る。比喩、具体例、表現など、伝えたいことをより適切に伝えるためにも。

 

わが敬愛なる小山田壮平のライブDVDが我が家に届いたので、安いウイスキーを片手に鑑賞していると段々とエモい感情が湧いてきて、自分も何かをアウトプットしたい、気持ちを伝えたいという欲求が降ってくる。

 

というわけで、今もDVDをリピートしたまま、徒然なるままに何かを書こうと思ったのだが、筆を進めるのにひどく時間がかかる。頭の中に靄がかかってロックされている気分で、非常に不快だ。

何かを書きたいのに、書けない。ちょっとしんどい。なんだろうこの引っ張り出せない感じ。大喜利アプリで上手い回答が思いつかない感じ、芸能人が俳句を作って格付けされるテレビ番組を見て自分でも作ろうとしたけど上手く作れない感じ、好きなアーティストの曲の詩がなかなか思い出せない感じ、弓道の射法訓がどうしても暗唱できない感じ。(最後の2つは少し違う気もするけど..)

 

そういうお題に対して、すぐに回答が思いつく人って、どうやって思いついているんだろうか。

 

自分の仮説では、そういう人って普段から心の声を駄々洩れにしているのかなとは思う。

自分に正直に、すべての事象・事柄に自分の考えをもつこと。「すごい」「おいしい」「かわいい」「きれい」「いやだ」別に、具体的な表現ではなくてよい、素直に感じたことを素直に出す。別に口に出さなくてもいいけど、心で感じること。

やっぱり今って、スマホがあるから、隙あればインプットできてしまう。でもそれって心に自分の感情に蓋をしてしまってるのかなとは思う。思考停止でインプットだけを繰り返す。AIかよって。

スマホばかりに触れずに、自分の感性を出せる機会を、時間を作るのって大事だよねって最近思う。

インプットは決して悪いことではなく、アウトプットしないのがダメなのであり、そういう意味では独り言でもいいから、インプットしたそばからアウトプットするのって大事なんじゃないか、独り言ってすごく大事なんじゃないかって思う。

 

あとは最近、よく聞く言葉だけどHSP(Highly Sensitive Person)の人にもヒントがあるのかなと。

その字のとおり、感受性がとても豊かな人。ゆえにメンタル系の病気になりやすい一方、著名なアーティストたちがこの特性を持っていたりするらしい。

そういう人たちって、一つの物事から得る情報量が、一般(あえて一般といいます)の人と比べてすごく多いのだと思う。それゆえ、些細なことにも気を巡らせることができる。

例えば、あなたは「雨」という一つの単語からどれだけ思いを巡らせることができるだろうか。じゃあ「雨」と「空」を組み合わせたら?

 

あとは、抽象と具体の往来回数がすごく多いのだろうと思う。往来回数を増やすには、それこそ教養が必要だと思う。知らなければ行き来できない。思いつきやしない、頭によぎりもしない。

 

 

こういう技術論?ちっくな話がしたかったんじゃないんだけどな。

やっぱり文章を書きなれてないとこうなっちゃうのかな。

 

妻が見ているドラマが終わって、テレビが空いたので、ゲームします。独り言多めで。

 

 

精進精進。